終了 医す者として

1950年代から30数年にわたり同病院の映画部が記録してきた出張医療や患者会などの映像を交えながら、その歴史を描く。

終戦直前に長野県佐久市にある佐久総合病院に赴任してきた若月俊一医師は、戦後間もなくから全国に先駆けて周辺の農山村への“出張診療”や、健康診断を軸にした健康予防管理活動“全村健康管理”を実施。
農村地域の高度専門医療と地域密着医療を実現させていく。

医す者として

「農民とともに」から「地域住民とともに」へ。

解説

長野県佐久市(旧南佐久郡)佐久総合病院。終戦5か月前、信州千曲川沿いにある小さな病院に青年医師・若月俊一(1910~2006)が赴任したことから、この物語は始まる。
周辺の農山村への「出張診療」、「全村健康管理」(今でいう健康診断を軸にした健康予防管理活動)を全国に先駆けて行ってきた。また、健康に対する啓蒙活動の一環として取り組んだ「演劇」や「病院まつり」は地域づくりにつながっていく。
病院主催の演劇の様子昭和の高度経済成長以降の農村地域の過疎・高齢化には、いちはやく対応し、医療と福祉の垣根を越えた活動を展開し、住民のニーズにこたえる=「二足のわらじ」(高度専門医療と地域密着医療)を履き展開してきた佐久総合病院。
その実践につらぬかれた志は、いまも多くの人々の心をひきつけている。しかし今、そうした活動を続けてきた佐久総合病院は再構築の時代を迎えている。はたして若月俊一が築いた農村医療の歴史は引き継がれていくのだろうか?

医す者として 公式サイト

登場紹介

若月俊一(1910年6月26日~2006年8月22日)
若月俊一東京大学医学部卒。佐久総合病院の院長としておよそ半世紀にわたり活躍。住民と一体となった運動としての医療実践に取り組み、農村医療、農村医学の礎を築いた。また外科医として先駆的な脊椎カリエスの手術などもおこなったことでも知られる。その活動は、日本のみならず、国際的な広がりを見せ、東洋のノーベル賞といわれるマグサイサイ賞を受賞(1976年)。農民の生活に密着したフィールドワークや研究をおこない、日本のみならずアジア諸国の農村医療のモデルとなっている。

受賞歴
勲二等旭日重光章、マグサイサイ賞(フィリピン)、農林大臣表彰、保健文化賞、長野県知事表彰、日本医師会最高優功賞、信毎特別賞等受賞
歴任
国際農業農村医学会名誉会長兼事務総長、社団法人日本農村医学会理事長、日本農村医学研究所長、社団法人日本病院会副会長、全国公私病院連盟常務理事等
主な著作
「村で病気とたたかう」(岩波新書)、「信州の風の色」(旬報社)、「農村医療にかけた30年」(日本図書センター)、「いのちを耕す」(対談:住井すゑ/労働旬報社)、「若月俊一の遺言」(家の光協会)、「高齢化社会の在宅ケア」(岩波ブックレット)、「五十歳からボケとたたかう」(Jブックス)、他多数

JA長野厚生連 佐久総合病院 〒384-0393長野県佐久市臼田197番地
南佐久郡23ヶ町村のうち13ヶ町村が無医村だった昭和19年、農協の前身組織の病院として発足。若月医師赴任後の戦後すぐから、農村への「出張診療」をはじめ、農民を病から救い健康を守るための「全村健康管理」(今でいう健康診断を軸にした健康予防管理活動)を全国に先駆けて行ってきた。また、昭和の高度経済成長以降の農村地域の過疎・高齢化にいちはやく対応、医療と福祉の垣根を越えた活動を展開。そのとりくみは医療・福祉にとどまらず、地域問題の面からも幅広く注目されてきた。そして今、佐久総合病院は、高度医療と地域医療の両立へ向け、更なる病院再構築の時代を迎えている。

概要

タイトル
「医す者として」映像と証言で綴る農村医療の戦後史
上映時間
108分
クレジット
監督:鈴木正義
プロデューサー:若月健一、小泉修吉
語り:山崎樹範
撮影:岩田まき子、伊藤硯男、澤幡正範、今井友樹、満若勇咲
音効:園田芳伸
録音スタジオ:東京テレビセンター
編集スタジオ:MJスタジオ
共同制作:佐久総合病院映画部、農村医療の映像記録保存会
企画制作:グループ現代

医す者として

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